【調査研究Ⅰ】学びの調査地⑥ 福島県福島市(1)
「保養っていうのは、安心安全な部分も兼ね備えていますけども、もはや、時間が過ぎていって、今度は教育の場でもあるということ」
3?11東日本大震災と、それに続く福島第一原発事故が発生した2011年当時、福島市の渡利地区は、放射線量が高いホットスポットとして報道されていました。なぜメディアに注目されていたかというと、渡利小学校の保護者を中心とした方たちが、政府との交渉や地域での集会の開催などを行っていたからです。その中心にいらしたのが、「渡利のこどもたちを守る会」(現「セーブわたりキッズ」)の代表?菅野吉広さんです。
菅野さんのバイタリティは、どこからきていらっしゃるのか?
何が、原動力の根源におありなのか?
どうしても聴きたくなった私は、守る会のホームページに掲載されていた菅野さんの携帯番号に、ドキドキしながら電話をしました。菅野さんは、素性の知れない私へのお話をご快諾くださり、2012年3月にお会いした際、いろいろと教えてくださいました。それから、2017年、2022年とお話を伺い、取り組まれている実践の経過を教えて頂いてきました。
菅野さんには、当時、小学校に通うお子さんがいらっしゃいました。手に入れたガイガーカウンターで周辺を測ってみると、通学路はどうも放射線量が高いと気づかれたそうです。学校でも、たとえば校庭の表土は、放射性物質が降り積もっているので放射線量が高い。それを削り取り、校庭の地下深くに埋めるという学校からの説明会では、保護者からの意見がたくさん挙がって紛糾し、終わったのが深夜だったそうです。
そうした状況であったにもかかわらず、行政に幾度となく要望を出しても、なかなか除染に取りかかってくれなかったそうです。
〈このような状況で、こどもたちの健康は大丈夫なのだろうか?〉
そんな思いが、菅野さん心をよぎります。
この思いが原動力となり、同じ思いの保護者有志の方たちで集まり、まずは通学路の放射線量を測定し、危険度マップを作成されました。それを学校で配ってほしいとお願いしたところ、校長先生が首を縦に振らない。こどもたちの健康はどうなるんだと憤慨した菅野さん方は、ならば校門で配布しよう、お店で貼ってもらおうと行動に移します。
でも、それだけでは、こどもたちへの健康被害を抑えきれないのではないかと考えた菅野さん方は、次の手に打って出ます。こどもたちに、週末や長期休みのあいだ、放射線量の低い地域で過ごしてもらう保養活動を始められたのです。そのために誕生したのが、「渡利のこどもたちを守る会」だったのです。
たくさんあつまった寄付を元手に、比較的放射性物質の効果が少なく放射線量も低かった土湯温泉の宿を貸し切って、保養活動をスタートしました。この際、菅野さん方がモットーとしたのは「安近感」です。原発事故の被害に遭って、日常の生活であれば必要のない宿泊費などをかけなくて済むように、そしてできるだけ近い場所で行えるように、という思いがこの「安近感」という言葉に込められています。
保養活動は、FOEジャパンの支援で、現在も「ぽかぽかプロジェクト」として続いています。
(活動の詳細がわかるサイト)https://foejapan.org/issue/20111212/4510/
そうして今年で14年目を迎える保養活動は、こどもたちの健康のための保養という目的以外にも、いろんな意味を持つようになってきたそうです。
菅野さんは、放射性物質への不安を自由に語り合えるのが本当の自由な社会のはずだと指摘されます。でも、実際には、不安を口にするのがはばかられる空気が、福島市を、福島県を覆っているのが現実です。ですが、保養のあいだは、こどもと一緒に参加する保護者どうしで自由に語り合える空間があると菅野さんは仰います。
保養活動の思わぬ副産物は、それだけではありません。菅野さんによれば、保養活動はもう、教育の場になっているといいます。原発事故が起こってから、もう13年が経ちました。初めのころ参加していた子どもたちは、高校生、大学生、社会人になっています。不安を抱えながら育った子どもたちが、こんどは保養活動を運営する側にまわり、主体的に計画を立てていく。そんな頼もしい姿があるそうです。
また、ボランティアに来てくれる個人や団体とのつながりができたり、そういう方たちからの学びもあったりすると菅野さんは仰います。
だから、保養活動の場は、もはや教育の場になっている???そうした思いが、菅野さんの冒頭の言葉に込められているのです。
原発事故直後は、いろんなところでたくさんの団体が行っていた保養活動も、いまはほとんど残っていません。そうしたなかで、保養活動を続けられている菅野さん方の継続する力は、ほんとうにすごいと思います。そうした実践と菅野さんの思いから、たくさんのことを学ばせて頂いています。
※菅野さんのインタビュー記録の一部も、はじめの科研費の中間報告書に掲載しています。ご希望の方は澤までご連絡ください。
(2024年4月18日掲載)